美を求めるよりほかに道はない

・健康のいまと未来

高齢者は弱い、寝たきりになりやすいというレッテルがありましたが、寿命が延びるなか、高齢者の意識はずいぶんとかわり、平均的な体力レベルも年々向上、1998年度から15年間のあいだに体力レベルにおいて全体で5歳は若返りしています。

参考:厚生労働省 平成25年度体力・運動能力調査結果の概要及び報告書について

平成27年の運動習慣のある者の割合をみてみると、高齢者は働く世代の2倍です。

引用:厚生労働省平成27年「国民健康・栄養調査」より(赤字挿入)

ちなみに5年さかのぼり、平成22年の運動習慣のある者の割合がこちら。引用:厚生労働省平成22年「国民健康・栄養調査」より

10年さかのぼり、平成17年の運動習慣のある者の割合はこちら。引用:厚生労働省平成17年「国民健康・栄養調査」より

さて、このような傾向があるなか、未来はどうなっていくでしょう。今の働く世代の人の身体の不調や生活習慣をみればそう安穏とはしていられないことがわかります。冷え、むくみ、肩こり、腰痛、頭痛、たるみ、肥満、うつ、運動不足、離婚、死別、独居、核家族化・・・。大病mix悪い連鎖である脳血管疾患・糖尿病・認知症・骨折・孤立・貧困のサインを出している人は依然として多いと考えられます。

では、上図の分岐路で右に行かず左の道を歩むためにはどうすればいいのでしょうか。私は2001年ごろからヘルスカウンセリングや健康にまつわる行動変容や健康教育について学び、2006年から介護予防にたずさわり、2010年ごろから同世代の働く女性の体操教室を、2015年から企業研修などで働く人のための健康体操を指導する仕事をしてきましたが、そこで見えてきたことは、

・身体と暮らしと健康に多くの人は無関心
・病気は病院へ行って薬を飲めば治ると思っており
・効率優先の社会のなかで、身体のことはあとまわし

という現状です。

家事や仕事に忙しくて身体をじわじわ傷めていても、痛みや病気としてあらわれて、せっぱつまるまで行動できない(切羽詰まれば普通ではできない努力ができるのですが)
・いざそうなったときに、何をしたらいいかわからない
・健康情報が多すぎてどれも信じられないのでやってみることもしない
・効果が出るまで続けることができない

といった、さまざまなハードルが待ち構えていて、正しい道に戻ることは容易ではありません。そして楽な方、つまり、いままでの習慣を続ける方にどうしても流れてしまうのです。

・個人の努力だけではもう無理なところに来ている

これまでは、不健康になるのは個人の努力が足りないせいだから、生活習慣を変えてもっとがんばるようにという指導が主流でした。しかしいま。仕事や社会環境による「食事・睡眠・運動」サイクルの乱れという大きな濁流のなかで、一人一人に「しっかりと立て」というだけでは、とても難しいことのように思えます。

国の制度や行政サービスがうまく機能して、個人が濁流に流されないようにつなぎとめるネットワークを張り巡らせるのはもちろん大事ですが、個人の努力だけではとても難しいような状況に身動きできなくなっている人にとって、もっと効き目のある本質的な鍵ははないのでしょうか。

介護の仕事をしていたAさんは、20代の若い頃に「50歳ぐらいで死んでしまいたい」と言った事があります。介護の仕事をしているうちに、どうしても明るい未来が想像できなくなってしまったのでしょう。私もこれまで介護施設に7年、ケアマネジャー3年、通所介護施設で6年勤め、介護予防に11年たずさわってきましたが、介護施設で寝たきりの人の身体をほぐすことや、歩く練習、立つ練習などをずっと行っていたあいだ、じつは高齢者の大多数が弱い人たちばかりなのだと思っていました。おそろしい勘違いです。でも、いまだに同じように長年介護にたずさわる人の中には、このような勘違いをしている人がいます。

また、忙しく働くうちに、基本的な食事をつくって食べ、よく眠り、程よく体を動かすという習慣が壊れてしまっているひともいます。こうした不健康な生活や考えをもつ人に出逢い、一方でしっかりと自分の健康習慣やスタイルを構築している人と話をしてきて、近ごろ「本流がどこであるかということを示す」「本流を見てもらう」ことほど大事なことはないのではないかと思うようになりました。一部の人にとっては「あたりまえ」の習慣と、「あたりまえ」の環境のことです。そして、いまからでも間に合うということを確信し、濁流にもまれながら立つことを強いるのではなく、あっさりとそこから抜け出してきてもらえばいいのです。

・ほんとうのところ、みんな「健康になりたい」のではない

いまや「健康」という言葉や、健康グッズや健康食品、健康番組など、市場にあふれています。「健康」が手あかのついた言葉になってしまっていないでしょうか。本当に必要な人、本当に必要な時期にはちっとも響いていないのではないでしょうか。たんなる会話のネタになってはいないでしょうか。もしそうならば、ほかに良い方法を探さなくてはいけません。そもそも、みんなほんとうのところ、健康になりたいわけではなく、健康の先にある何かが欲しいのです。小さな幸せや、ちょっとした充実感のようなものが。

だけど、必死でもがく中でようやく得られるような小さな幸せやちょっとした充実感は、あっけなく泡のように消えてしまいます。もっと高い領域で欲していることに向わなければ、強い引力が働かないのです。ちょっと上がってすぐに落ちることになる。

強い引力をはたらかせてくれて、高い領域で欲していること。それは何だろうかと考えてみたら、私は「美」なのではないかと思うのです。美こそ現代の救いではないだろうかと。

美というと
「こんな齢になって彼氏を作るわけでもないし」
「ごてごてと着飾ったり化粧するのは嫌だわ」
「わたしに美なんて似合わないわ~」
という人がいますが、

そういった美の捉え方でなく、美をこのようにとらえてはいかがでしょう。

・「美」とは自然界であるべきもっとも機能的なバランスであり、均整である

・多くの人が古来より神と呼んできた宇宙の仕組み、自然の摂理、そうした意識がこうあれと望んでこの地球に生み出した私たち生命体としての理想の姿が「美」

化粧は古代より神への儀式や呪術として行われてきたことです。もともと美は世俗的なごてごてと身に着けるようなものではなく意識のありようであり、化粧や衣装や儀式はときに荒ぶる畏れ多い自然と上手く折り合いをつけ、調和しようとする意識が具現化されたものなのだと考えられます。

・自然がもとめるままに美しく保ち続ける努力をする

私たちが寝たきりへの道を歩むのではなく、もっと時間をさかのぼって生命体として一生元気でいられて、この人生でやるべきことを死ぬまでやり遂げられる健康な体、丈夫な体をつくるには、どうしたらいいか考えてみると、つまりはもう美を求めるよりほかに道はないと思うのです。

遠慮なく、はずかしがらず、美を求めればいい。リッチな人でないと得られないわけではありません。何しろ、特別なものは必要ないのですから。豊かな自然のありさまを体現しようというだけなのですから。循環の中にある自分の身体に注意を向ける時間を増やすだけなのですから。

何か新しい習慣を足すのではなく、いまある習慣の変えるだけ。量ではなく、質を変えるだけ。たとえば、座り方、立ち方を変えるだけ。すでにこうした基本姿勢すら崩れてしまっていることに多くの人は気づいていません。

特別なことが必要なのではなく、日常の中にこそ救いがある。これは日本の禅の心でもあります。自然がもとめるままに身体を美しく保ち続ける努力をすることの先に健康がある。人間がたった100年余りのうちに創りだした人工的なものや便利なものに、無自覚に触れ巻き込まれ流され続けるのではなく、ほかに本流となる道があると知ること、見ること、信じることが、健康の本流にジャンプできる方法なのではないでしょうか。

いまの時代を生きる人の身体がいつまでも強く丈夫で健康であるためには、もう「健康」ではなく「美」を求めるよりほかに道はない。

これまで、動かない体を動くように、苦しい息を楽なようにと、何年も人の身体を良い方へ変えることにたずさわってきた私ですが、高齢ですっかり寝たきりになってから何かしようとする限界をひしひしと感じているのです。

以上、今朝2月の雪景色を眺めながら思ったことを連ねてみましたが、みなさんはどうお考えですか。

photo credit: Thank you, my friends, Adam! Light and Shadows via photopin (license)

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